松江の武家屋敷です。
二百石~六百石くらいの中老クラスが住んでいたそうです。
Flickrにアップすれば、という話ですが、最近全然使っておらず……。
上の写真(↑)は、
左が式台、右が普通の(?)玄関です。
長屋門は復元ですが、享保年間の姿だそうです。
この中に中間などが住んでいました。
武家屋敷は、(1)お客様用の空間と、(2)家族の私的な空間に分かれていた。
まず(1)から見ます。
盛り砂は、有事の際、刀を数回切りつけて実戦に使用できるようにするためのもの。(たぶん、平和な時代には、かなり形式的に)武家屋敷の玄関につくられていた。
玄関の前の広々した空間から、長屋門をふり返ったところ。(受付になってる)
式台玄関は、特別の祝い事などの場合だけ使用していた。
普段のお客は、こちらの玄関を通ったんじゃないかと思います。
あるいは、仲のいい人は、庭伝いに座敷の縁側から上がったのでは。
使用人などはこの玄関も使用せず、右に回って台所の土間から入ったんでしょう。
手前の屏風は「武者隠」。
この家の中で一番広く、床の間に書院もあって、立派な部屋です。
「中老塩見小兵衛のもとに、緊急の用件で近習頭某が書類を持参し、指示を仰ぎに罷り出ている場面」。
中老ってのは偉そうですね~。
座敷の縁側の端に、お客様用のトイレ(雪隠)があります。
中級武士くらいになると、大体家族用とは別だったらしい。
最近読んだ、『武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景』(文庫版)という本に、江戸時代の中下級武士の家の間取り図と、家族の暮らし方がたくさん載っていて、とてもためになりました。
こうした「客用玄関~次の間~座敷」の(1)客用の空間は、禄に関係なく、武家屋敷に共通していたようです。
ここから庭伝いに建物の裏に回ります。
「座敷」を含む客用の空間は、一般的には道に面した方角にあり、道から遠い側に家族の私的な空間がありました。(だから、どちらが南向きと決まっているわけではない)
さて、『武士の絵日記』には、武家屋敷には「座敷」と「茶の間」がある、と書いてあります。
「茶の間」は家族だんらんの間。
ここの展示では、右から
「家族部屋」
「当主居間」
「奥方居間」
「納戸」
と、部屋が並んでいて、建物の端に小さな茶の間がありました。
一番奥まっているし、隠居した先代のおじいさんなどがいそう。
あの立派な座敷は普段は使わなかったということか、それとも藩内の実力者(?)になると、来客もしょっ中あったのか。
東北北陸では、囲炉裏のある大きな「茶の間」があって、煮炊きもし、家族や身近な客が集まる。
南九州以外の西日本では、煮炊きは台所の竃だけで行い、茶の間は小さいとか。なるほど。
この家では、家族はどこで夕飯を食べたりしていたのでしょう。台所の近くかな?
ここで急に雲が晴れて夕陽がさしてきました。
湯殿といっても湯船があるわけではない(覗くの忘れた)。
台所は、土間はあまり広くなく、ほとんど板間だったように思います。
長屋門の中間部屋に、昔の道具がいろいろ飾られていたので、これも資料に(^^)
普段の明かりは何を使っていたのかなど、意外と分からないものなのです。
江戸時代の小説など、読者の立場だとさらっと読み飛ばすのですが、
自分で何か書いてみようとすると、本当に細かい部分が全然分かりません……。
最後に、同じ塩見縄手ぞいのお蕎麦屋さんの、割子そばの写真を載せて、おしまいです。