銀座の映画館で『天才スピヴェット』(こちらも可愛かったです)を観たとき、この予告編が流れていて、良さそうな映画だなと思っていたので、行ってきました。
レディースデイだったせいか、初回の時間ぎりぎりに行ったら席がなく立ち見(!)。二回目も満席。“孤独死”がテーマだけあって、観客の年齢層は高めでした。
地味な、映画です。
ある日、アパートの向かいに住んでいた老人が、死後数週間経って発見された。しかも、地区の合併にともなう合理化で、ジョン・メイは解雇を宣告されてしまう。最後の案件になった老人、ビリー・スタークの人生を、ジョン・メイはこれまで以上に熱心にたどり始めるが……。
主演のエディ・マーサンは、どこから見ても冴えない中年男。
(『シャーロック・ホームズ』のレストレード警部役で出ていました。ダウニー・Jrのホームズに“愚鈍”呼ばわりされながらもどこか憎めない役柄を演じていた!^^)
派手な涙や抱擁、恋愛、なーんにもありません。
抑制の効いたイギリス映画。(イギリス・イタリア合作らしいですが)
職場とアパートを往復する規則正しい毎日、きちんと片づいた部屋、毎晩同じ味気ない夕食。
カリカリに焼いた薄いトーストが、イギリスっぽいです。
こういうタイプの男の人、いると思います。旦那さんも、若い頃、どちらかというとそうだったので。毎日同じものを食べてよく飽きないなと思うんですが、食事は基本的に栄養補給としか思っていないんですよね。
原題は「STILL LIFE」で、そのままでも良かったんじゃないか、という気も。
が、これは観た後だから言えるので、「スティル・ライフ」という小説はすでにあるし、“孤立死”という日本でも関心の高いテーマを表すには、「静かな人生」はややおとなしすぎる、かもしれない。
でも、死者の「おみおくり」だけが描かれている作品でないことは、確かです。
一言でいえば、生きているうちに人と関わることの大切さ、みたいなことをひかえめに表現している映画だと思うんですよね。先走りましたが。
(このあたりから映画の詳細に触れるので、先入観なく観たい方は、引き返してくださいね)
ジョン・メイは自分が葬った人の写真を、一人一枚だけ自宅に持ち帰って、青いアルバムに丁寧に貼っています。
で、このアルバムの写真が次々と映し出されるシーンに、言い様もなくじーんとくる。(私だけか)
この男だったり女だったり、さまざまな顔つきをした人間に、それぞれまったく別の人生がある、ということを思う。
かれらにも、当たり前だけど、若かった頃があって、家族や友だちがいた頃があって、輝くような笑顔で写真に映っていたりして、……そして、最後は独りきりで死んで行ったわけだけど、でもその最後だけで、かれらの人生のすべてが台なしになるわけでは、ない。
人の一生、死、地域社会とは何なのか、など、考えさせられました。
結局、人生に優劣はないと思うんです。
「1から10までの目盛」みたいな、直線的なスケールでは、人生は測れない。それが、ユニークな、「自分自身を生きる」ということだと思う。
それでも、一般的には、「効率化」を口にして、アウディ※に乗ってる上司のほうが、お金もあって、家族や友だちも多くて、「良い人生」と言われるんだろうな、と。
と、Twitterに書き、旦那さんにも、
「世間一般の評価では、ジョン・メイは変わり者だよね……」
と、映画のあらすじを説明したら、「そんなことはない」と言われてしまった。
「人に顧みられることのない地味な仕事を、コツコツとやっている人は、どんな分野にもいるものだ」って。し、失礼しました。そうかもしれない。いや、きっとそうなんでしょう。ジョン・メイだって、実在する人物の仕事に着想を得て作られたわけだし。
一方、この映画は、ジョン・メイの冒頭のような生き方がいい、とも言っていないんです。
それは、物語の後半、無表情だった彼が、少しずつ笑顔を見せることからも、明らか。
ジョン・メイの静かな生き方が、上司や後任者より劣っていて、変わり者だということではない、な・い・ん・だ・け・ど、より「自分自身を生きる」ためには、やはり、人と関わっていかなければならない。
過去をたどるとビリー・スタークは、ジョン・メイとはずいぶん違う、破天荒な生き方をした男だったことが分かってくる。イギリスをあちこち旅して、昔、ビリーと関係した人たちと話をするうち、ジョン・メイは少しずつ変わっていく。
これまでは判で押したような毎日を送っていた。死んだ人の部屋を調べ、一人で葬儀に参列し、地下のオフィスで遺族からの電話を待っていた。身寄りはなく(ケリーが「わたし、孤児になったのね」と言ったとき、「つらいものです」となぐさめていましたね)、結婚もせず、頻繁に訪ねあう友だちもいない。でも、他の生き方を知らなかったから、それで満足していた。
笑顔はなかったけど。
食べ物の描写が印象的です。
毎晩同じ、魚の缶詰とトーストの夕食。りんごの昼食。
ところが、解雇が決まり、オフィスから大胆に旅に出て、人々を訪ね歩くうちに、ジョン・メイは、いつものレパートリーにはない食べ物、飲み物を口にするようになる。
とにかく、新しい誰かと出会うたびに、新しい飲食物が出てくるといってもいい。
時間をかけて、丁寧に描写されている。
パイをもらい、生の魚をもらい、断りきれずにブラックティーの代わりにココアを飲み、ウィスキーを瓶に口をつけて飲み、そして、ハーゲンダッツ!(劇場内で一番笑いが起きた瞬間)。いつもと同じ、魚缶の夕食を用意してくれた人もいましたけど。
これらの食べ物は、物語前半にはない、ジョン・メイにとって新しい経験を象徴していると同時に、人と関わることはそれ自体が「滋養」なんだ、という意味を持っていると思う。
ジョン・メイは、ついにビリー・スタークに自分の墓地を譲ることにしますよね。
それは、自己犠牲的といえば確かにそうだけど、彼はこんなふうに考えたんじゃないかと思う。
物語の冒頭、ジョン・メイが唯一かすかに微笑むシーン。
それは、自分のために用意した、街を見下ろす丘の一等地に買った墓地で、寝転んでいる時間。
ジョン・メイは、彼なりの死生観を持っていたと思う。
亡くなった人は品位のある方法で見送られるべきだし、お墓も必要だと思っていた。
だから、自分のために、素敵な墓地を予約しておいた。
生きている間は、社会の役に立つようにコツコツ働いて、死んだ後は、自分の選んだ場所で安らかな眠りにつこうと思っていた。誰にも迷惑をかけないように準備をして、自分が埋葬された後のことを想像すると、幸せだった。
でも、最後の案件のために、いろいろな人に会って話を聞いているうちに、
「生きているうちに、人と関わることの大切さ」
に、ジョン・メイ自身、気づいたんだと思う。
だから、それを気づかせてくれたビリー・スタークに、自分の墓地を譲ることにした。
自分はまだ生きているんだから、って。
生きているのに人と交流せず、いろんな食べ物も味わわず、自分の墓地に寝転がって微笑んでいるなんて、つまらない、もっと言えば、滑稽なことだ、と思ったんじゃないかと。
(この先、軽ーくですが、映画のラストに触れますので、ご注意ください)
それで、あのラストですよ。
エーーーー!!?
せっかく、はじめての女友だち(まずはお友だちからですね♡)が出来そうだったのに。
映画としてはいいと思うんです。予想外の結末という意味で。でもーーー!!
もう一度観たら、また最後のシーンで泣く予感がします。
誰にも顧みられなくても、報われないということではない。言えるのはそれだけです。
予告編を見て、いいなと思った方は、どうぞ。
期待を裏切らない、しぶーい映画です。
あと、食べ物の描写に注目してみて下さいね。
小麦粉をつけて、ビール入りの衣であげたフィッシュ・アンド・チップス、食べたくなりましたよ!
お し ま い。
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