↓フォスがオープニングでこっちを見るところ、妙に印象に残りました。
『宝石の国』アニメ第1期、良かったです! 「冬眠」あたりからだんだん惹き込まれて、原作にもハマっていきました。動きは最初少しCGっぽいかなと思うこともあったけど髪の質感は素晴らしいし、フォスの声はもうまったくフォスにしか聴こえなくなりました。
原作は、4巻までは以前漫喫で読んだんです。そのときは「続きが出たら、またどこかで読めばいいや」くらいの熱量でした。それがアニメを見終わって、気がついたら8巻まで買い揃えてました。(笑)ニワカですみません。
というわけで、まず鉱物クラスタなら一度は考えると思うんですが、
「原子が規則正しく並んだ宝石(鉱物)の体がなぜスムーズに動くのか? 可動部はどうなってるの? 風で髪がなびくのは?」
などと、私も最初、頭の隅に〇.一ミリくらいある「科学的精神」で考えないわけでもなかったんですが、し・か・し、そんなことを気にしていたら、この作品の新しさは楽しめない!! と、ここで、声を大にして言いたぁーい!!(笑)
宝石の「擬人化」でもないんですね。
擬人化なら一種類の鉱物につき一人のキャラクターでいいんだけど、この話では組成が同じでも、二人以上の別々の宝石たちが出てくる。だから一巻で言われているとおり、「無機的な鉱物の体に何かが宿った、はるか未来の謎の生き物」でいいんだと思います。
フォス「この星は 六度流星が訪れ 六度欠けて 六個の月を生み 痩せ衰え
陸がひとつの浜辺しかなくなったとき すべての生物は 海へ逃げ
月がまだひとつだった頃繁栄した生物のうち 逃げ遅れ海に沈んだ者が
海底に棲まう微小な生物に食われ 無機物に生まれ変わり
長い時をかけ 規則的に配列し結晶となり 再び浜辺に打ち上げられた それが我々である」(第1巻)
冒頭でフォスが暗唱するこの国の成り立ち。
それと「インクルージョン」という言葉は、作品中で独自の設定があります。最初少し戸惑いました。宝石たちが割れてもくっつけば再生できるのは、この微小生物のおかげ。
ルチル「私たちの中には私たちを創ったとされる微小生物が内包物(インクルージョン)として閉じ込められており、現在は光を食べ、私たちを動かしてくれています。彼らは私たちが砕け散っても、ある程度集まりさえすれば傷口をつなぎ、生き返らせるのです。…たとえ粉となり土に紛れ海に沈もうとも、仮死にすぎない。他の生物にはないすばらしい特性です。しかしこの性質のために、私たちは何事も諦められないのですけれど…」(第1巻)
この「インクルージョン=微小生物」は、フォスたちを生かしてくれているけど、フォスの思うようには動かなかったり、ちょっと人間の「無意識」みたいなところがある。
第一話は、書店で立ち読み用の小冊子になっているので、見ていただくと「原作のこの小さいコマに、あの動きが!」と、アニメの丁寧なお仕事を再確認できると思います。
それと、原作はいかに「絵」的な美意識を大事にして描いているのかも。
ただ、絵柄が安定するのは2巻以降かなと。
ここから先、アニメを見た方には、ネタバレありません。
突然語り出す『宝石の国』の個人的魅力・その1~3
その1、性別がない自由さ、本質的に「中性」ということ
宝石だから当然ですが、基本、登場人物に性別がないです。そりゃそうだ。絵としては上半身が少年、下半身が少女のように描かれています。人称代名詞は「彼」だけど、中身は中性です。
金剛先生は少なくとも外見は男性、ウェントリコスス王は女性なので、完全に性別がない世界ではないんだけど、人間の社会にあるような「ジェンダー」は無くなっている。ジェンダーは、物語上のはるか昔、「祖となる動物」人間社会の残り香みたいなものです。
「本質的に中性」の軽やかさ
これ、ちょっと一瞬、まじめに想像してみてもらいたいんですが。
自分の体が、鉱物のように原子が規則正しく並んでいるだけで、本質的に「男性でも女性でもない」、ってどんな感じがします?
新鮮、というか、自由な感じがしませんか? この物語に入り込んでいると、ときどきこの「どちらの性でもない」ことの、軽やかな感じを味わえるんです。
人間の社会では、それぞれの性別に山ほどのレッテル、色眼鏡、バイアス、ステレオタイプがくっついてますよね。
男女について描かれた漫画や小説や、エッセイ本や、TVドラマなどを、誰もが味わっている。そして、そのイメージなりステレオタイプを、知らず知らずのうちに自分の中に取り入れて、生きている。
それは「祖となる動物」人間の社会で生きているかぎり避けられないことだし、もちろん悪いことじゃないけど、ただ、何て言うのか、古くさい重いコートをいつまでも着込んでいるようなものじゃないか、という気もしていて。何だか、すべてを脱ぎ捨てて、もっと身軽に自由になってみたい、と。……
この作品を通して、「性別のない」の自由さを想像してみるのは、価値があります。
うーん、普通のファンの感想とだいぶ違ってきた気がするけど、まあいいか、続けよう。
その2、心置きなく「美」にひたれる。
自分のことを百パーセント「美しい」と思っている人って中々いないですよね。どんな美人でも、ほんのちょっとくらいは「ここが、こうだったらいいのに」と思うことがあるでしょ? それに、生き物は年を取るし。
でも、『宝石の国』の登場人物たちは、全員が宝石。
上記の「性別がない」と同じで、自分が常に、劣化することのない「美しさ」と共にあるって、ってどういう感じなんだろう、と思うわけです。
一体、どういう感じなんですかね?(笑)
これこそ、想像力でのみ到達できる境地、物語を味わう醍醐味じゃないですか?!
実際は、自分の毒に悩んでいるシンシャや、ボルツより割れやすいことにコンプレックスを抱いているダイヤなど、宝石たちにも悩み事はあるわけですが、そこはまぁ、それとして。
普段の生活で、「美」について考えることはあまりないと思うんですが、『宝石の国』の世界にただよう、純粋な美しさと共にある、という感覚が新鮮でした。
その3、変化が怖くなくなる。
個人的には、「欠損」というテーマにはあまり興味がなくて、フォスがどんどん欠けていくのを、最初は(ああっ、貴重なフォスフォフィライトが! もったいない!)とおののいて見ていました。
でも、途中から、変わっても変わってもやっぱりフォスなんだ、と思えるようになって、その変化自体にむしろ勇気づけられるように。
最近の変化のスピードが速い時代に、主人公としてありえないほど変わっていくフォスのキャラクターは、なかなか合っているのではないか、と。
ただ、アンタークが連れ去られた後、アニメでも原作でも屈指のシリアス回(3巻)に、フォスが「ここから漏れる合金だけ、なぜだか制御できないんです」と涙を流す画面も、すごく好きです。うん、うん……怖いよね。
フォス「冬から春に変わるのをみるのははじめてです。生き物はこんな速さで変わっていくんですね。怖いな……」
金剛先生「おまえもだよ」
フォス「それは……そうです……怖い」
(第3巻)
ボルツとフォス
この先、原作の感想に続きます。ボルツについてひたすら語ってます。未読の方はネタバレになるので引き返してね。
8巻まで読んでみて思ったのは、本格的に面白くなるのは、フォスが月人の謎解きを始める5、6巻くらいからかな、と。世界観SF(なぜこの世界はこうなっているのか、という大きな謎が存在する物語)でもあるので。
アニメも、ぜひ二期目をやって欲しいです! よろしくお願いします。
ウェントリコスス王
「わしらの伝説では、この星にはかつて にんげん という動物がいたという。この星が五度欠けたときまでは、しぶとく陸に生き残ったが、六度目にはついに海に入り、魂と肉と骨、この三つに分かれたという」
「かっこいい言い方をするとそうなるだけで、実際は徐々に三種に変化して生き残ったっていうニュアンスで頼む」
「わが種族アドミラビリスはそのうちの肉だと伝えられている。生殖と死を細やかに繰り返しながら、知を重ね紡ぐ特性を受け継いだとされる。一方、骨は、他の生物と契約し、長い時を渡る術を身につけ陸に戻った」
「魂はついに清らかな新天地を得、再興のため肉と骨を取り戻すべくさまよっていると言われている。やつらにそっくりだ」
「月にいた時感じたのは、月人は天敵がいるわけでもないのに争いを好み、満足することがない。なんとなくだが、あの理由なき焦り様は、にんげんがそういう生き物だったのかもしれぬ」
(第2巻)
パパラチアが出てくるのはこの5巻だけなんだけど、連載開始したときから重要なキャラクターと決まっていたんだなと。一話目のカラー見開きはフォスが先生の袖の陰に隠れているので、時間的には少し前なんでしょうね。次はいつ目覚めるのでしょう。楽しみ。→9巻キター!
個人的には、8巻まで読んで、ボルツが不憫に思えてきました。フォスとの関係で。
不憫というと誤解があるけど、フォスとボルツの場面を最初から見ていくと、ボルツの「変わらなさ」が愛おしくなるんです。
1巻では「おいクズ! 僕が呼んでるんだ、返事くらいしろ!」と、どこまでも上から目線。
フォスの足が速くなっても、アメシストの危機に走ることができなかったときは「何をしていた」とブチ切れてました。ボルツは戦闘マニアだけど、仲間のことを大事に思ってるんですね(そのわりには、一巻でフォスに「悩みごと粉にしてやる」とすごんでたけど)
アンターク亡き後、フォスが本格的にハードボイルド化すると、ボルツも一目置くようになって、やっと対等な関係になります。戦い方を指南するときも、乱暴な物言いはなくなり、戦力になる仲間、という感じです。6巻でみんなで戦ったときは「ボルツ、来てくれたのか……」「おまえが呼んだんだろ」。
そして、色々あって、フォスが月に行く時。
7巻の最後、月人の幕に包まれながらフォスが最後に目にする地上の光景の一つに、ボルツが必死の形相で走っている一コマがありますよね。フォスは自分の意思で月に行こうとしているのに、ボルツはそれを知らないで、つらそうな顔をしてる。
そのコマを見たとき、ついにフォスに追い越されてしまった(何に、と言われてもよく分からないけど、何となく)ボルツが不憫になってしまって。
その後、8巻でフォスが地上に帰ってきたときも、「ボルツ! 後ろの! フォスっぽい!」と言われて「わかってる!」と、フォスとボルツ一瞬目を合わせるシーンなど、結構、ちゃんと描かれてるんです。この黒い子の、無口だけど、よけいなことで悩まず、疑問を持たず、合理的で、一途なところが、愛おしいなぁと。そんなことを思う方、私の他にもいませんか? いるよね!
アドミラビリス族も、ぼよんぼよんしていて大好きです。ポスポピ様には笑いました。月に行くというのは今後の伏線だよね。やっぱり、7、8巻が、ストーリーとしてがぜん面白くなってきた感じ。
先生が「祈りの機械」であることは本人も肯定しているし、確定。人間合成工場はまた出てくるのか? 続きが楽しみです。
Tweet