『バケモノの子』(映画)、『コンテンツの秘密』(新書)、ついでに『攻殻 新劇場版』と『台風のノルダ』について書きます。
今回はネタバレなしです!
細田守ファンには期待を裏切らないクオリティですが、ほめるばかりではつまらないので、少し気になったところから。
『バケモノの子』であえて気になったところ
個人的には、ストーリーはほとんど気にならなかったです。
台詞が硬すぎるという意見も読んだけど、まあ、こんなものかなと。
だから、気になったのは表現の部分。
これは、私が『コンテンツの秘密』を読んだばかりだからかもしれない。いくつかのシーンの「情報量のばらつき」が気になりました。
アニメでは画面の線の多さを「情報量」といい、実際に現場で使われている言葉だそうです。ジブリが成功したのは情報量が多いから、と分析されている。
それでいうと、『バケモノの子』にはすごく精密に描かれたシーンと、そうでもないシーンがあるように感じます。線の多いキャラと少ないキャラがいて、一緒に並ぶと何となく違和感が。『サマーウォーズ』のOZの中のように、全部が統一されてフラットなら気にならないのだけど……。
それから、上手く言えないのだけど、ジブリ作品は、すべてのシーン(それこそ、あらゆる1分1分)に「アニメーションの動きそれ自体」を楽しむことができるのに対し、『バケモノの子』では、やはり「話を前に進めるためのアニメーション」を見せられているな、と感じる部分が少しだけある。
すごーーく高度な要求をしているとは、分かっているけれど……。
宮崎駿監督の引退会見談に、「アニメーションとは“世界のひみつ”をのぞき見ること」、というのがあって、それを川上さんは『コンテンツの秘密』で非常に上手く説明してくれていた。
つまり、人の脳は、現実「そのもの」を記憶しているのではなくて、現実の中からある「特徴」を抽出して記憶している。だから、アニメーションは、しばしば現実「そのもの」よりも「らしい」動きを描かなければならない。
戦闘シーンより日常生活のシーンを描くほうがずっと難しいのは、観客がその動きをよく知っているので、嘘っぽく感じてしまうから。つまり、「世界のひみつ」というのは、この脳のなかの(神秘的な)世界の精髄を、アニメーションで再現するということではないか。
何が言いたいかというと、私は細田守作品をポスト・ジブリ最有力候補だと思っているのですが、表現の点ではまだ、何となく、不安定なところがあるように感じるということ。本当に微妙な点だし、それに多分すごーーーく高望みをしているのだろうけど、細田監督は純粋なアニメーション作家というよりはもっと広義の意味での「作家」なのかなぁ、という印象です。
わー、何を言っているんだろう私。細田作品は基本的に全部好きなのに。これぞ神をも恐れぬ素人感想。ごめんなさいごめんなさい。
客観的情報量と主観的情報量
『コンテンツの秘密』について触れておくと、アニメ好きや、いろいろなコンテンツについて考えているなら、おすすめの一冊。
たとえば、アニメの線の多さなど、客観的に計れる要素は「客観的情報量」。
そのコンテンツが表現したい事柄、テーマや、人の心を揺さぶる何かなどは「主観的情報量」。同じ映画でも、観る人の経験や興味、好き嫌いによって感動するかどうかは違うのは当然で、後者は主観的にしか計れない。
「客観的情報量」は、実写のほうがアニメよりも多い。でも、「客観的情報量」が多すぎると脳は混乱してしまって、うまく「主観的情報量」を取り出すことができない場合がある。たとえば子どもは実写よりアニメのほうが分かりやすい(最近は大人でもそういう人が多い。私もか?)
映画は、雑多な現実の一部分を切り取って「主観的情報量」を表現します。
これは、どんなコンテンツにも共通していて、コンテンツとは、「小さな客観的情報量によって、大きな主観的情報量を表現したもの」と定義できる。
などなど、脳内イメージの話や、情報量の話以外にも、面白い話題がたくさんあって、ためになりました。
『バケモノの子』の表現したいもの
そして、細田守作品が素晴らしいのは「主観的情報量」のクオリティの高さです。
いろんな人が感想を書いているので、かぶってしまいますが……。
『おおかみこども』が理想の母親の話だとしたら、この物語は「(理想的とはいえない)父親と男の子」の話。そして、ある意味では、もっと深く、「男として生きるとはどういうことなのか」の話でもあると思う。
宮崎駿監督は、『ラピュタ』について、
「男性というものは、職業を持つことで自分が大人なんだと認識するものです。女性にとっては体の存在そのものが人格を作っていくんですが、男の場合は仕事とか社会的地位、あるいは運命のようなものが必要になってくるんですよ」
と語っていたけど(ソースはこちら)、言い換えると男の子は、マーロウじゃないけど、ある意味で「強くないと生きられない」ところがあると思うんです(はは)。自分はどうやって社会で生きていくのか決めなくちゃいけない。自分は何ができるのか? 頭がいいのか、スポーツができるのか、ユーモアがあって面白いのか、芸術的センスがあるのか、……。
『バケモノの子』でも冒頭で「いろいろな強さ」の話が出てきます。そのなかで、「幻」をつくる能力の宗師さまがいたと思うんですが、あれは細田監督自身のことなんじゃないかなぁ、なんて、うがった見方をしたりしました(笑)。アニメーションという幻を作って、人の心を揺さぶるという。それも立派な「強さ」ですよね?
ただ、ひょっとするとこれからの時代は、そういう考え方も少し古いのかもしれません。細田監督はもっと新しい「男の子」のモデルを描きたかったような気もします。もっと、感情が細やかというか、剣だけでなく愛がある男の子みたいなものを。(うわっ、こういうことは「物語」で語らなければいけませんね///)
もう一つ、この作品で良かったのは、「学ぶこと」「知的好奇心を持つということ」がとても前向きに、健全に、描かれていること。
テストで一点多くとることだけが、「勉強」じゃないんですよ。
知らないことを知るのは、楽しいことなんだよね。
映画館で隣にいた中学生女子二人組が、観終わった後、ぽつんと「今日来てよかった」って言っていてうれしかったです。
細田作品には、すごく明るい未来感があって、それが私を惹きつけます。
それにしても、渋谷の背景美術は美しかった~。ため息ものでした。
ついでなので
ついでなので、『新攻殻機動隊』(映画)について。
人によっては面白いと思うだろうから、あまり書きたくない。
しかし、私にとっては、やはり押井守版は超えられなかった……。
正直言って、話が複雑でよく分からなかった、というのもあります。
テレビシリーズを見ていなかったのが悪いのかなあ?
スパイものは、いろいろな組織の思惑が絡み合うので、観客がついていけなくなることがままあるんですが、それでも有名な作品(007とかミッション・インポッシブルとか)は、すごく気を使って、前作を観ていない、予備知識のまったくない視聴者でも話の筋が分かるように(あるいは、分かった気になるように)がんばっていると思う。小説と違って、映画はちょっと前に戻って読み返すことができないので難しいです。うーん。
あと、個人的には素子はもっとグラマラスなほうが好み!
あんまり少女体型だと、弱そうで……。
二十年間で何であんなにキャラクターが「少女化」してしまったのだろう?
それと、最初の映画版『攻殻』を観た十何年前には感じなかったこと。
コンピュータ内部の世界(攻性防壁とか)の画は、今でもかっこいいな、と思うんですが、一方で都市の描写が「いかにもSF」っぽすぎて、「何か違うな……」と思ってしまって。
二子玉川で観たんですが、シネコンを出て、まあ、真下にある最近できた蔦屋家電に入りますよね。そうすると、「こっちのほうが攻殻の世界より近未来っぽいよな」って思ってしまって(笑)。意味、伝わりますかね? あるいは、『サマー・ウォーズ』で描かれる緑がいっぱいで、でも、ものすごくハイテクな未来のほうが、今現在、私たちがいる世界線の延長上としてありえる、と感じてしまうんです、実感として。まあ、攻殻の世界は、別の世界線の未来だと思えばいいんだけど。
蔦屋家電は人が多いのがネックだけど、確かにすごいと思う空間です。しっかし二子玉川、一段とまたキラキラの街になったな!……昔は玉川高島屋がぽつんとあるだけだったのに。
これは、アニメーションとしての「表現」以外、とくに言うことはないです。時間が短いので、ストーリーは無理があって当然だと思うので(そして、実際、かなり無理のあるストーリーです……)
台風の雲の表現、あと、バナナをむいたりする日常動作、宇宙船。変な言い方ですが、「このスタジオは、これだけの質の高いアニメーションを作ることができるんですよ!」という見本作品のように感じました。男の子二人のキャラクターもいいんですが、もう少し描写の時間がないと深みが出てこないのではと。
いい脚本があれば、すばらしいアニメ映画が作れるんじゃないか、と思いますが。期待しています。
ああああ、こんな好き放題に書いて、罰当たりなことですね。
でも、本当に箸にも棒にも……だと感想を書く気にもならないと思うので……。