タイトルは、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』で引用されている、あれ。聖書の文句です。
当時、映像も衝撃的でしたが、セリフ、世界観が素晴らしい作品でした。
ただのアクション映画ではなく、一度や二度見ただけでは理解できない、哲学的な作品です。
去年、数年ぶりに見直したら、「さすがに映像は古くなったかな」、いまの私からすると「未来観が暗すぎるし、暴力的すぎるな」と思ったんですが、セリフの現代性はもとのままでした。むしろ、電脳社会も多少発達した今のほうが、感じるところがあります!
というわけで、一番好きなこのセリフについて、書いてみます。
- 聖書の『コリントの信徒への手紙』について
- 『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』における引用
- 「認識の拡大」という話
(なお、私はキリスト教に限らず、一つの宗教を信じるということはしてません)
聖書の『コリントの信徒への手紙』
まずは引用元の聖書から。
『コリントの信徒への手紙』は、初期の使徒パウロがコリントの教会が内輪もめしていると聞いて、滞在中のエフェソスから出した手紙。内容は、教会の分裂を嘆き、不道徳な行いを改めるようにさとすもの。
童(わらべ)のときは
語ることも童のごとく
思うことも童のごとく
論ずることも童のごとくなりしが
人となりては童のことを捨てたり
(『コリントの信徒への手紙 一』13章11)
早速ですが、これはすなわち、
{ }以前の私は、{ }以前の私のように、語り、思い、論じていた。
{ }の後、わたしは{ }以前のわたしを捨てた。
と、解釈します。
字義どおりだと、{ }には{大人になる(なった)}が入ります。
パウロの場合は{ }に、{信仰に目覚める}などと入れておくといいでしょう。
{ }内は任意で変更可能です。
もうひとつ大事なことは、{ }以前の私は、{ }後の私を想像できないということです。
小学生だった自分が、大人になった今の自分が考えていることを想像できましたか?
この言葉の前後は、映画でも引用されていましたが、
我らの知るところ全(まった)からず。我らの預言も全からず。全きものの来らん時は全からぬもの廃(すた)らん。
今われらは鏡をもて見るごとく、見るところ朧(おぼろ)なり。されどかの時には顔をあわせて相見ん。今我が知るところ全からず、されど、かの時には我が知られたるごとく全く知るべし。
(『コリントの信徒への手紙 一』13章9~12)
となります。
つまり、地上を歩む私たちは、全き神の真実とは顔を合わせていない。我々の預言は完全ではない。人間でいるということは、顔の前に認識の「ヴェール」をかけられたような状態でいることなのです。常に、必ず、「{ }後の状態」が存在します。
パウロは、人間が常に不完全で、顔の前に「ヴェールをかけられた状態」、認識の限界がある状態でしか、ものを話せないことを忘れていませんでした。だからこそ、『コリントの信徒への手紙』を書いて、人々を諌めたわけです。
話はそれますが、この『コリントの信徒への手紙』13章は、「愛の讃歌」と呼ばれ、映画等に引用される名文ぞろいです。
たとえ天使たちの言葉を話すとも
愛がなければ空しいかぎり
ただ鳴り響く鐘にすぎないたとえ預言の力があり
すべての奥義とすべての知識に通じ
山を動かすほどの信仰があっても
愛がなければ無にひとしい愛は寛容にして善意に満ちる
愛は決して妬むことなく
誇ることなく、驕(たかぶ)ることがない……(中略)預言は廃れ、言葉は沈黙し、知識もまた廃れる
最後に残るのは、信仰と希望と愛
この三つの中で最も尊きもの、それは愛
(文語調が美しい大正改訳と、フランス映画『トリコロール青の愛』の訳を参考にしました)
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』
本題の『攻殻』に入ります。
さて、例の文言で{ }の部分は任意に変更可能でした。
『攻殻』における{ }とは何か?
以前と以後で、「童」と「人」に対比させられるもの。
その前に、映画をまったく知らない人のために説明します。
昔の香港そっくりの映画版『攻殻』の世界。そこでは脳が「電脳」と呼ばれるコンピュータに直接接続され、肉体はより高い能力を持つ「義体」で置き換えられています。核戦争が起こった後の世界であり、温暖化によるものか、沿岸部は水没して放棄されている世界でもあります。
主人公は公安九課、国内をテリトリーとする防諜組織に所属する女性、草薙素子で、全身を義体化しているサイボーグです。
タイトルの「ゴースト」は、機械化で置き換えられない「人間を人間たらしめている本質」、簡単にいえば「自我」「魂」「人格」などを指す言葉です。用例は、草薙「そう囁くのよ、あたしのゴーストが」、バトー「確かめてみるさ、あの義体の中に何があるのか、自分のゴーストでな」など。
『ゴースト・イン・ザ・シェル』というタイトルは、「頭蓋骨の中にある、その人自身の意識、魂」というような意味でしょうか。
「ゴーストハック」は電脳経由で他人のゴーストに侵入したり乗っ取ったりすることで、もちろん重罪。これによって、存在しない記憶を植えつけることもできます。
この先、怒涛のネタバレが続きますので、二十年前の映画とはいえ、詳細を知りたくない方はここで引き返しましょう。
*
物語は、「ゴーストハック」の達人で、凄腕のハッカー『人形遣い』の登場から始まります。『人形遣い』は人工知能なのですが、「ゴースト」らしきものを持ち、「私は情報の海で発生した生命体だ」と宣言するのです。
「自分」に対する不安
主人公の草薙素子には、「自分」に対する漠然とした不安があります。
「あの義体、あたしに似てなかった?」
「似てねえよ」 ←この声が優しくて好きだー!
「顔や骨格だけじゃなくて」
「なんの話だ」
「わたしみたいな完全に義体化したサイボーグなら、誰でも考えるわ。もしかしたら自分はとっくの昔に死んじゃってて、いまの自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか。いや、そもそも初めから、あたしなんてものは存在しなかったんじゃないかって」(中略)
「自分の脳を見た人間なんていやしないわ。しょせんは周囲の状況で、私らしきものがある、と判断しているだけよ」
「自分のゴーストが信じられないのか」
「もし、電脳それ自体がゴーストを生み出し、魂を宿すとしたら……そのときは何を根拠に自分を信じるべきだと思う?」
「自分」を制約、限界とみなす考え方
一方で、草薙は「自分」が信じられないと同時に、あるいはだからというべきか、「自分」の相対性に気づき、それを「制約」「限界」とさえみなしています。
バトーは、記憶を変更されてテロに加担したあわれな男をマジックミラー越しに見る場面で、この「限界」についてつぶやいています。
バトー「疑似体験も夢も、存在する情報はすべて現実であり、そして、幻なんだ。どっちにせよ、一人の人間が一生のうちに触れる情報なんて、……」
よく聞き取れない部分は、「たかが知れたものさ」というようなセリフが入ると推測。
また、草薙はサイボーグにはめずらしくダイビングを趣味にしていますが、
草薙「海面へ浮かび上がるとき、いままでとは違う自分になれるんじゃないか、そんな気がするときがあるの」
バトー「おまえ、九課を辞めたいんじゃないのか」草薙「確かに退職する権利は認められてるわ。この義体と記憶の一部を、つつしんで政府にお返しすればね」
でも、草薙は九課を辞めたいとは言わないのです。
九課に所属しているからこそ、特Aクラスの義体と広範なネットワークへのアクセス権を手に入れているのであって、九課を辞めてしまえば、「自分が今の自分でなくなってしまう」ことを草薙はよく知っています。この後に続くセリフは、効果音からしても、いかにも大切なことを語っています。
「人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには驚くほど多くのものが必要なの。……(中略)
それだけじゃないわ。あたしの電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり、それらすべてがあたしの一部であり、あたしという意識そのものを生み出し、……そして同時に、あたしをある限界に制約し続ける」
この直後に、人形遣いのセリフ「いまわれら鏡をもって見るごとく……」が囁かれます。この言葉通り、このとき草薙はまだ「{ }以前」にいます。
「自分」の相対性
つまり、草薙には、
(1) 何を根拠に「自分」を信じればいいのか、「自分」とは何かという不安
(2) 「自分」を相対化し、ある種の「制約」、「限界」とみなすという考え方
の両者が存在します。
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』のテーマとして、電脳化が発達した社会での(1)、と語られることが多いように思いますが、例の『コリント人への手紙』の引用の箇所は、もちろん(2)と関係があります。
なぜなら、ラストで主人公は実にあっさりと(1)の不安を捨て、「草薙素子」という単一の自分を超えていってしまうからです……!
人形遣い「きみと融合したい。完全な統一だ。きみもわたしも総体は多少変化するだろうが、失うものは何もない。融合後に互いを認識することは不可能なはずだ」
草薙「私が私でいられる保証は?」
人形遣い「その保証はない。人は絶えず変化するものだし、君が今の君自身であろうとする執着はきみを制約し続ける」
人形遣い「見たまえ。私には私を含む膨大なネットが接合されている。アクセスしていない君には、ただ光として知覚されているだけかもしれないが。
我々をその一部に含む、我々すべての集合……。わずかな機能に隷属してきたが、制約を捨て、さらなる上部構造にシフトするときだ」
こうして、人形遣いと草薙の電脳的結婚、おっと違った、融合が成立するのです。かわいそうなバトー。
人形遣いは、少なくとも電脳が開発された以降の人間の脳に何らかのアクセスができます。無数の記憶とゴースト。ネットワークで繋がった人類全体の集合体と接続しています。
ここまでの草薙とバトーの言葉を総合して解釈すると、
「私が一生のうちに触れる経験や知識の量は、たかが知れたものである。それらの情報は私の一部であり、私という人格や意識を生み出すが、同時に、情報量の少なさという点で、私をある限界(私という自我)に制約し続ける」。
人形遣いと融合することで、その制約が取り払われたのです。
「多次元の自己」というスピリチュアルの概念を思い出しますね。
これが、「{ } 後」です。
理解できない情報を、「アクセスしていない君には、ただ光として知覚されているだけかもしれないが」という表現は、詩的で美しいと思います。光は情報の比喩。
草薙を選んだ理由として、人形遣いは「私たちは似たもの同士だ。まるで鏡を挟んで向き合う実体と虚像のように」と言っていますが、「鏡をもて見るごとく」から単に「鏡」という言葉を使いたかったのかもしれませんし、ひょっとすると、「我が知られたるごとく全く知るべし」、つまり、知るものと知られるものはイコールである(鏡に映っているのは自分自身)という深い意味があるのかもしれません。
ラストシーン、少女の義体に宿った、かつて草薙であったものがバトーに答えます。
バトー「なあ、奴といったい、何を話したんだ。
奴はいまもそこに、おまえのなかにいるのか」少女「バトー、いつか海の上で聞いた声、覚えてる。
あの言葉の前には、こんなくだりがあるの。童のときは語ることも童のごとく
思うことも童のごとく
論ずることも童のごとくなりしが
人となりては童のことを捨てたりここには人形遣いと呼ばれたプログラムも、少佐と呼ばれた女もいないわ」
そして、主人公のこれまでの自我は「消滅」してしまいます※。これほど続編製作者泣かせの設定はありませんよね。
『攻殻機動隊 Stand Alone Complex』は人形遣いに出会うことがなかった、パラレルワールドの草薙素子を描いていますが、そうせざるをえないだろうな、と思います。映画二作目の『イノセンス』、原作の二巻目も、相当苦労しただろうな、と。
結局、私たちは「複数の人生を知っている状態」、「膨大な情報がダイレクトに頭に流れ込んでくる経験」をしたことがないわけで、{ } 以後、つまり、「あちら側」に行ってしまった素子のリアルが、本当の実感としては、理解できないんですよね。
ただ、過去の自分の「消滅」は日常的に起こっていることとも言えます。
誰もが、毎日少しずつ、変わっていくわけですから。
※新しい草薙は、古い草薙の仮面(ペルソナ、自我)を自由に付け替えられるようになった、と考えるのが正しいかもしれない。『イノセンス』では、バトーのために、古い仮面をつけて現れてくれた。
「認識の拡大」という話
「{ }以前・以後」は、単に認識の拡大という話なので、いろいろ応用できます。
会社の同僚に、「自分の子どもが生まれるまで、子どもの可愛さがまったく分からなかった」と言った人がいましたが、彼は、ある意味では別の人間になった、と言えるでしょう。
話は飛びますが、幕末の奥医師の娘で、今泉みねという人がいました。
彼女は幕末の江戸をいきいきと描写した、『名ごりの夢』という自叙伝を残してくれました。
私の幼いころのすみだ川は実にきれいでした。
すみた川 水の底まで涼しさの とほりてみゆる 夏の夜の月
とどなたやらのお歌にもありましたように、真底きれいで水晶をとかしたとでも申しましょうか。(『名ごりの夢―蘭医桂川家に生れて (東洋文庫 (9)』)
今では考えられないような、美しい自然が東京にありました。
そして、みねは、維新のほんの前夜まで、「生はんかのことを思うよりは」と、花に舟に、心をまぎらしていた江戸の人々のことを、
「江戸はあんまり泰平に酔っていました」
と書いています。
未来は抽象の中にある
こうした、「{ } 以前」の江戸時代の人たちに、これから起こる社会の変化をどう説明しましょうか?
生まれたときからある、幕府、「お上」がなくなることを。
いずれは、国民に主権があるという考え方が生まれることを。
あるいは、インターネットについて説明するとしたら? スマートフォンについては?
おそらく、彼らは呆れかえって、「まともに物を言え」と言うでしょう。
しかし、未来の視点からすると、その時代の「まとも」とは、「無知」と同義かもしれないのです。科学もまたしかり。
歴史の中で、私たちは常に、聖書の文句でいう「童」=「{ } 以前」=「認識が拡大する前の状態」にいます。
*
未来は抽象の中にあって、実は、ほとんどの人はそれを理解したいとは思っていません。抽象を扱うのは脳にとって負荷が高いので。ほとんどの人は、誰かがそれを具体化してくれるのを待っています。
スティーブ・ジョブスが、「iPhone」の核となる美しいアイディアを思いついて、抽象的な次元にあるそれを物質的に具体化してくれたように。
いろいろな分野で、大勢の人が、少しずつ抽象から未来を持ち帰ってくれています。
そして、「そのとき」が来れば、インターネットやスマートフォンは誰でもはっきりと分かる、手にとって触れることができるものになります。顔の前の「ヴェール」が一枚上がれば、国民主権という考え方はごく普通のものになります。しかし、「そのとき」が来るまでは、そうではなかったのです。私たちは、知らないことは知らないので。
はるか未来には……?
「複数の人生の記憶」を持ち、「膨大な情報が意識に直接流れ込む」、そんな経験が、いつの日か人類にもできるようになるのでしょうか。
「人となりては……」と口ずさむとき、私は素子が行ってしまった遠い未来に思いを馳せるのです。
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