『天気の子』感想つづき。「問題作」?な部分三点をまとめました。
ラストについては、あくまで個人的な解釈と感想です!
よければ、最初からどうぞ。
『天気の子』を「問題作」と感じる部分
問題の部分その1 「貧富の格差」
すでにちょっと書いてるけど、見る人によってはカンに触る部分があるかもしれないな、感じた。こういう現実を描くこと自体が。是枝監督の『万引き家族』と同じ。
「貧富の格差」描写なんてあったか? ありましたよー。
湾岸のタワーマンション、広ーいリビングの一角でiPadに表示したレシピを食い入るように見ながら夕飯を作ってる若い奥さん。須賀が義母と話をするときの、銀座かな? あのティーラウンジのチェーン店のカフェでは絶対にありえない、席間の広さ。
個人的には、アニメでこういう描写があること自体、ちょっと衝撃を受けた。
社会学者の小熊英二さんが、ジブリの『熱風』という雑誌(2017.11)で、アニメには学校か宇宙が出てくることが多くて、それは全国民が共有できる物語だからだ(つまり、人生が分岐する前の段階か、空想の世界)、と言っていたけど。
それでいうと、「天気」は空想的ではないけど、「宇宙」と同じくらい誰もが共有できるトピックス。「学校」の代わりに「貧しい時代」。この作品、三年前から準備して今年の夏公開なんですよね? 時代感覚がすごいと思った。前作は「パンケーキに喜ぶ話」、今作は「ジャンクフードに喜ぶ話」、そして、この三年間で「明らかに時代が貧しくなっている」。ひぃ…誰かに喧嘩売って…いや、『君の名は。』くらいのヒットをたたき出すことができれば、誰にも忖度せずに好きな作品を作ることができるんですねー。すばらしい。
ただ、故・高畑勲監督がおっしゃっていたという、いわゆる「アニメで戦争に向かうような高揚感を演出することもできる」(つまり、とても危険な道具ということ。映画全般に言えることだけど)、という危惧も多少は感じました。
なぜこれを描いた・・・銃をちゃんと描く気がなくてごめんなさい
問題の部分その2 東京を水没させた(笑)
『君の名は。』であれだけ「東京ステキ感」を煽っておきながら、『天気の子』では最後に東京をぶっ壊す。アナーキー感最高。
半分水没した東京が映るシーン、シンゴジで熱線後の東京を上空から見下ろしたときのような感慨がありました。
ただ、東京の水没自体はありえる未来だろうな、と。江東区が大規模水害ハザードマップを出して話題になったけど、東京にもこの先いつか線状降水帯がやって来ることは当然予想される。
温暖化で北極・南極の氷が溶けて海面が上昇する、というシナリオもありえるし。
さすがに、何年も雨が降り続くということはないように思うけど。
問題の部分その3 世界を悪くしてまでも、大事な人を選ぶという「選択」
以下は、現時点での私の見方であり、これが正しいと主張するつもりはありません……。
「セカイ系」なラスト部分
天候を左右する不思議な力を使ううちに、その身体が透明になっていった陽菜。
彼女の力による晴れ間を多くの人が喜んでくれたため、陽菜は「晴れ女」を続けていた。しかし、わずかな晴れ間の反動のように、天候はますます異常になっていく。
力を使いすぎた天気の巫女は「人柱」になって消える運命にある、と知って、陽菜は自分が「人柱」になって消えれば、この異常気象が収まる、と考えるようになる。
「帆高はさ、この雨が止んでほしいと思う?」という問いかけに、帆高が何気なく「うん」と答えると、次の朝、彼女はバスローブだけ残して消えていた。前日までの大雨が止み、天気は快晴。踏み込まれた警察に連れていかれるとき、昨晩、陽菜にあげた指輪が青空から落ちてくる。
彼女は「人柱」になったのだ、と確信した帆高は、偶然も手伝って、警察署から逃走。夏実のバイクに乗って、陽菜が「天気と繋がった」という、代々木の廃ビルの屋上にある鳥居を目指す。そして、雲の上でで彼女の手を取り……。
「あの夏の日、あの空の上で私たちは、世界のかたちを、決定的に変えてしまったんだ。」(予告編)
帆高と陽菜の身体が廃ビルの屋上に現れた瞬間、それまで快晴だった天気が、いきなりどしゃぶりの雨に変わる。それから三年間、雨は降り続けて、東京の低地はのきなみ水没した。
……と、まあ、こういうラストなわけですが。
「一人」が犠牲にならないラスト
これは須賀がうそぶく「一人が犠牲になって世界がよくなるなら俺はそのほうがいい。誰だってそう思うだろ?」の真逆の選択ですよね。
でも、「一人が犠牲になって」というほうが倫理的には問題がある。じゃあ、その逆はどうなのか、帆高と陽菜は責められないのか、というと、これが単純には考えられなくて、帆高と陽菜以外の人間は、異常気象の原因が二人にあるなんて、誰も思ってないんです。当たり前でしょ。
ここには、二つの物語がある。①帆高と陽菜だけが共有しているストーリーと、②社会全体が共有しているそれと。後者は、須賀の言うとおり「世界は元から狂ってた」のであり、確かに、陽菜がその力を使い始める「前」から雨はずっと降り続いていた。だから陽菜の力があってもなくても、いずれ東京は水没したのかもしれない、ともいえる。
でも、映画ではどう言っているかというと、①です。予告編からして、「これは、僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語だ」なので、二人の間では①が絶対に真実。
実際、青空から指輪が落ちてきたり、ネットで「そういえば誰かが人柱になって空に上がっていく夢を見たような……」という書き込みがあったりと、①を補強する描写ばかりです。
とくに、警察の車両に乗り込もうとして青空を見上げた須賀が、その一瞬後に、どしゃぶりの雨の中にいる切り替わりなど、あ、今、一瞬で別の世界線にジャンプしたな、と感じる迫力があります。
細かいことをいうと、あの帆高と陽菜の体が鳥居の下に現れたとき、警官たちはどこで何をしていたのかな、と。「え? なんで急に雨降りだす?」みたいなね。
世界は本当に悪くなったのか?
もう一つ、考えてしまうのは、「世界は本当に悪くなったのか?」ということ。
実は、あんまりそういう感じがしないんです。
瀧のおばあちゃんの「東京は江戸より前の姿に戻っただけ」という淡々とした認識。令和六年、帆高がバイトを探すと、時給が「1200円」とか「1300円」ばかりになっている。須賀の事務所が小ぎれいになって、数人のスタッフまで雇っている。
経済的にはそんなに悪くない状況なんじゃないか、と思えるんです。
ひょっとして東京の一部が水没することで大規模な需要が生まれて、東京一極集中も強制的に解消されて、実は経済は活気があったりして(笑)
こういう未来もこれはこれで「あり」、もし自分がその世界線にいたら当然「あり」で、みんな何とかやっていくんだろうな、と思える。
最後の、「陽菜さん、僕たちは大丈夫だ」。
須賀に現実的な②の解釈を言われて、帆高も気持ちがグラつくんですが、陽菜の顔を見た瞬間に、あらためて①を確信する。二人は①のストーリーを選ぶ。
『大丈夫』という言葉は同名のRadの曲からきているらしいですが。
「誰が何と言おうと、僕たちが、この世界を選んだ。そして、この世界でやっていくんだ。大丈夫」という意味ですよね。映画では①が絶対だから。
自分はこういう選択をした、その結果を生きていく。選択の結果として、世界は今あるようになった(一見悪くなった)ようにも見えるけど、それが良いのか悪いのかは誰にも分からないことで、人知を超えたことで、自分にとって一番大事だったのは、そのとき大切な人の手を離さなかったこと。「その選択に、誇りを持っている」。罪悪感があったとしても、それはそれ。
あと、ラスト、二人で手を握りながら空を落ちていくシーンは、ラピュタですかね、千ちひですかねー。興収記録で千ちひ超えを狙ってきてるのかと思って、ニヤニヤしちゃった。
とてもローカルで、ドメスティックな話
『君の名は。』は、ローカルでドメスティックな想像力で作ったのに、ハリウッドでリメイクされることになったわけだけど(まだ本当にできるのか半信半疑だけど)、ここで二作目にハリウッド受けを狙った話なんか絶対作らないところが、新海監督の矜持だと思いました。
『天気の子』も、ローカルでドメスティックな話。舞台が東京というだけじゃなくて。
今の(若い)人たちの、受動的な、耐え忍ぶような感覚に一石投げ入れている部分があるんじゃないかな。「自分はもう大人の側だけど」という新海監督から、日本の若い子たちへのエールが込められているんじゃないか、と感じました。
「人柱」はどこにでもいる
「人柱」は、社会のどこにでもいると思う。
新海監督のインタビューでは、いわゆる世の中の有名人が挙げられていたけど、私がとっさに想像したのは、天 皇陛下……日本人に生まれてたった一人、どこに住むか、どういう職業につくか、自分で決めることが絶対にできない人がいるんですよ。しかも、全国民の「精神的支え」にならなきゃいけなくてね……あ、この話題は本気でヤバいからやめよう。
新海監督だって、これだけ時の人になれば「人柱」候補じゃないですか? 気をつけて。自分自身の情熱と繋がってくださいね。屋上の神社からまっすぐに。もちろん大丈夫だと思うけど。
たとえば、モンスター家族の中で虐待を受けている子どもが、「私が殴られなかったら、妹や弟が殴られちゃう」というのは、それはもう、本当に「人柱」だと思うんです。それで本当に死んでしまって、社会に警鐘を鳴らしたりして……。他にいくらでもある。学校で、部活やサークルで、職場で「人柱」みたいな人をつくってませんか? 自分がなってませんか? 「私が辞めたらこのお店(部活、会社)が回らなくなっちゃう」「誰のせいでもない、私が風俗で働けばいい」。
自分の身体がだんだん透き通ってきて、消えてしまいそうな人、現実にいると思いません?
世界が君の小さな肩に
乗っているのが僕にだけは見えて
泣き出しそうでいると (『大丈夫』)
なぜ、あのシーンの背景をラブホにしたかというと、観客へのサービスだけでなく、ラブホじゃなきゃだめだったんだと思います。あれがア○ホテルとか、逆にハイアットリージェンシーとかだと違うんですよ。何となく。
『天気の子』は映画だから、社会のあちこちにいる一見ごく普通の人に見えて「人柱」的存在と、その人のために奇跡を起こそうとする若者を、「天気の巫女」という大きなファンタジーでくるんで、唯一の世界にまで拡大して見せてくれている、という気がします。あ、それが「セカイ系」か。
これ以上何も足さなくていいから
若い人たちが、現在の社会の状況を「よほど悪い状態にならない限り、みんなが平等に悪くなるならそれでよい」と感じている、というツイートを読んで、今という時代の雰囲気がよく分かるなぁ、と思ったのですが。
映画の中の「これ以上何も足さなくていいから、僕たちから何も引かないで下さい」という祈りのセリフにも、すごく諦念が感じられる。現状維持さえも望み得ないのだ、と、分かっている感じ。
それでいうと、この映画はみんなで平等に、じゃなくて、「世界が一見悪くなるように見えても、自分の大事な人の命を選んでいいんだ」という、当たり前といえば当たり前だけど、挑戦的なことを言っているのかもしれない、と。
いや、自分で自分の命を選んでもいいと思うんだけど、ここで自分ではなく「大事な人のために」というのが、日本的なのかな、と(笑)。
はるか空の上で
あと、こじつけに近いですが、かなとこ雲の草原というビジュアルも、大事なのかもしれない。
たとえば、家族が壊れることになったとしても、自分を取り戻すために家を出るんだ、という選択をしようとする。
そのとき、地上のしがらみに縛られてものを考えていると、罪悪感も出てくるし、「私さえ我慢すれば」っていう思考が出てくるかもしれない。いったん地上をぽーんと離れて、はるか空の上で、誰もいない、社会もない、すべてがふっ切れた地点まで行って、それで、「一番大事なものは何なのか」「一番大事な人は誰なのか」「誰の手をしっかり握って、繋ぎとめたいと思うのか」と、考えることが、大事なのかもしれない。
ようするに、グランドエスケープはいい曲だってことです。
夢に帆を張って
この曲(グランドエスケープ)、最初はサビの部分が合唱ではなかったらしい。その曲が入ったVコンテを見た野田洋次郎氏が「まだ何か弱い。もっと物語が違う次元に覚醒するような何かが」「サビのアレンジを合唱にしたとき、手ごたえがあった。それを新海さんに送ったら、まるっきり別の、爆発的な新しい次元に行ったVコンテを作ってきた」(ananのインタビュー)ということで、あらためて聴いてみると、
夢に僕らで帆を張って
来るべき日のために夜を越え
いざ期待だけ満タンで
あとはどうにかなるさと肩を組んだ (『グランドエスケープ』)
この合唱のサビ、これは、セカイ系っぽくないなー(笑)と。
二人だけの話に見えるけど、もっと大勢の、社会のみんなの話だろうな、と自然に感じさせられました。
以上、ラストをいい方向に解釈しすぎでしたか?
きっといろいろな見方があって、それでいいんだと思います。
すごく細かいこと
・繰り返すけど、作画すごーい。本物の雨よりはるかに美しい水の粒。クラクラする。ときどきすごくCGっぽさを感じる箇所がある(悪いわけではないけど)。
・帆高も陽菜もバックグラウンドがほとんど描写されなかったけど、それでも物語にはすんなり入り込めた。大体こういう事情かな、みたいな想像力だけでOKなんですね。「トラウマでキャラクターが駆動される物語は、今回はやめようと思った」みたいなことを監督は書いていて、ああ、確かに昨今はそういう話が多いかもしれない、と。
・「撃たせないでくれよ…」がエモいリーゼント刑事、なんでリーゼントにしたんだろう?
と、思っていたら、代々木の廃ビル(代々木会館)を含めて、『傷だらけの天使』のオマージュという説が。なーるほどー!
・銃は出てくるけど、銃社会の告発というほどのことはないと思う。視聴者の感情をアップダウンさせるための、つまり、感情曲線の振幅を大きくするための道具かな、と思った。帆高の激烈な感情を表現している。
・湾岸の高層マンションの中で、水の魚を目撃している男の子。
路地裏で水の塊のようなものが空中に浮かんでいるのを指摘する少年二人。
気象神社でじいちゃんの後ろについている少年。
ちゃんと設定もありそうな少年たちで、また出てくるのかな、と思ったら出てこなかった。
・そして、あの空中に浮かんでいた水の塊は何だったんだろう。
あるいは、陽菜が晴れにした分の雨は、ああしてどこかで代わりにゲリラ豪雨になっていたんだろうかと考えるとちょっとこわい。
・そして、水の魚は? これは伏線回収できていない気もする。
・「龍神系」「稲荷系」などの話が最初にいかにも色物っぽく出てくるが、帆高が空に打ち上げられたときには実際に龍のようなものが描写されているので、ちょっとウケた。ただ、こういうのは昔からシャーマンや巫女などが、ヴィジョンの中で視ていることなので、あれこれ言ってもしょうがないと思う。
・冒頭の雲の山はラピュタみたい、そういえば陽菜のチョーカーの青い石はお母さんの形見だと思うけど……ひこうせ……げほげほ何でもない。
・須賀はいつ、どういうタイミングで指輪をいじるのか? 最後に自分で気づかずに涙を流すシーンでも指輪をいじっていた。あの涙は何だったのだろう? 私の解釈では、功利主義的な理性が「一人が犠牲になって皆が救われるならそのほうがよい」と思っていたとしても、無意識の部分はそうではないのではないか、と。ちなみに、無意識は深い海のようなもので、私たちが自分だと思っている部分は氷山の一角。
「誰かを犠牲にしてしまった」ことに対して、理性があれこれ正当化をする前に、無意識はただ「泣く」のではないか、と思った。意味深な表現。
→それより、「人生を棒に振ってでも、会いたい・救いたい人がいる」帆高に心の奥底で共感した(なぜなら、亡き妻のことを思い出して)という解釈のほうがいい気がする!
おしまい!
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