徒党に気をつけろ。
それでも、個人は連帯する。
『誰のために法は生まれた』(木庭顕)が面白かったので、忘れないうちに感想を書く。これから人や組織を見るとき、指針になりそうな視点を得られたので。書きたいのは一言、「徒党」というキーワードについてである。長いのでお暇なときにお読みください。
この本には、「徒党(ととう)」という面白いキーワードが出てくる。徒党を組む、などと使われる言葉だが、こんな単語を日常的に使う人はあまりいないと思う。しかしこれが、人間の社会を考える上でなかなか便利な言葉なのだ(と思う)。
この本は、法学者・木庭先生が、高校生たちとディスカッションしながら法のエッセンスについて語るものである。会話文で進むので、とても読みやすい。ディスカッションの題材になっているのは、『近松物語』、『自転車泥棒』などの古い映画や、ギリシャ喜劇・悲劇などの文学で、それだけ鑑賞しても面白い。しかし、木庭先生に鑑賞のしかたを教えてもらうとさらに十倍くらい面白くなる。
徒党(ととう)とは何か?
「徒党:何やらよからぬ事をたくらんで寄り集まった仲間・集団。」(Google検索)。
この本では「利益のために、グルになった集団」。
第一回目の授業『近松物語』からもう少し詳しく見てみる。
『近松物語』には、二種類の人間関係、経済的関係が出てくる。
(1)徒党、グルになっている関係
(2)信頼に基づいた関係
(1)は集団であり、個人に犠牲を強要する。(2)は個人間の対等な結びつき、と、言えるかもしれない。
近松門左衛門は、当時の上方の経済構造をよく理解し、現実の事件を元にして、この映画の原作を書いた。
江戸時代の京都。大経師(だいきょうじ)は暦の独占販売権をもち、大経師の以春(いしゅん)の家は繁盛している。妻のおさんはとても美人。彼女は、岐阜屋という、老舗だが今は家業の傾いた家からお嫁にきている。借金の利子で実家の岐阜屋が潰れそうになり、兄と母からおさんに金の無心がくる。
おさんは心苦しく思いながら、夫の以春に金の融通を頼むが、大した額ではないにも関わらず、位春ににべもなく断られる。
それどころか、位春はおさんが可愛がっている年若い下女のお玉に強引に言い寄り、愛人にして、おさんにもお玉にも恥をかかせようとしている。
大経師の家と岐阜屋の関係が、まず(1)である。徒党とまでは呼べないかもしれないが、「グルになっている」関係。
コンビニでペットボトルのお茶を買うときは、お金を払って商品を受け取れば、関係は終わりである。しかし、大経師の家と岐阜屋の関係はもっと複雑だ。何がやり取りされるか不透明な関係。
以春は、誰もが羨む美人と結婚した。しかし、そのことでこれまでにも何度か岐阜屋のためにお金を出しており、負担に感じている。さらに、岐阜屋は老舗で家柄もよく、以春は品のあるおさんに気押されるような気持ちもある。だからこそ、おさんの配下にいるお玉をモノにして、おさんにもお玉にも打撃を与えようとしているふしがある。
以春は、他にも「グルになっている」人間関係の中で生きている。こっちは権力そのもの。
暦の独占販売権は公家に取り入って得ているのだが、そのために以春は彼らをしょっちゅう接待して、頼み事を聞いてやり、金を用立てている。以春に借金をしていない公家はいないくらいである。公家たちと以春は「グルになっている」。そして、以春の地位は安泰というわけではなく、業界のナンバーツー、院の経師(きょうじ)が、虎視眈々とその地位を狙っている。彼らは信頼ではなく、利益で結びついている。
次に、近松は、意図的にまったく違った人間関係に生きる人物を出してくる。
実家からの金の無心に困ったおさんは、家の若い奉公人、茂兵衛に頼む。茂兵衛は身寄りのないお玉にもやさしい男。おさんの苦境に、それくらいのお金なら一時的に用意するのは何でもないという。
この茂兵衛は、材料問屋や、江戸・大阪の金融業者たちに信頼された、経済学でいう「エイジェント」。商家の有能な手代などは、(2)信頼に基づいた関係で、互いに繋がっている。たとえば、江戸で回収した暦の代金は、現金を輸送するのではなく、上方で信用にもとづいて引き出すことができる。こうした取引では、エイジェントが信頼を得ていなければならない。
茂兵衛が扱っているお金は、いつもビュンビュンと材料問屋や金融業者の間を流れているから、それをほんの少し脇に流しても、分からないように戻しておけば、バレない、はずだった。しかし、番頭の助右ヱ門が気づいてしまう。助右ヱ門は、「黙っていてやるから、金をよこせ」と茂兵衛を脅す。
徒党は個人に犠牲を強要する
つまり、助右ヱ門は、(1)徒党的な思考回路を持っていた。
「グルになる」ことを茂兵衛に要求したのである。賄賂を寄越せ、と。
しかし、茂兵衛は助右ヱ門と「グルになる」ことを拒否し、自ら以春に自首する。しかも、成り行きで、たまたおさんと同じ部屋にいたところを見つかった。以春は二人を不義密通と決めつけ(実際には、二人の間には何もないにもかかわらず)、早く自殺しろと迫る。不義密通が外に漏れると、家がお取り潰しになり、暦の独占販売権もナンバーツーの院の経師に取られてしまうからだ。
(1)徒党、グルになっている関係は、実は、ストレスフルな関係である。
金を積んで買った関係は、もっと金を積んだ他のだれかに取って代わられる。いつ裏切られたり、出し抜かれたりするか分からない。さらに極端になると、徒党は個人に犠牲を強要するようになる。個人は組織のために死んでくれ、というやつである。
『近松物語』の結末を書いておく。
おさんは怒り、絶望して、茂兵衛と逃げる。しかし、二人には最後まで不義密通という関係はなかった(と近松はしている)。
それでも、この逃避行の過程で、おさんと茂兵衛は、強く心を通わせることになる。最後には二人とも捕らえられ、磔になるのだが、引き回しのの馬上で実に晴れ晴れと明るい顔をしていて、見物人を訝しがらせる。
おさんと茂兵衛に最後まで共通しているのは、「徒党」「グルになること」「誰かに犠牲を強要すること」を最後の最後まで拒否した、ということである。
実は、おさんにだけは生き残る道があった。以春は不義密通が外部に漏れると困るから、茂兵衛だけ死なせて、おさんはこっそりと引き取りたかった。そのために賄賂を使って手を回した。茂兵衛も、おさんがそれで救われるなら、と、一度はその道は受け入れようとする。しかし、おさんは半狂乱になってそれを拒否する。なぜなら、それでは以春たちと同じになってしまうから。茂兵衛を犠牲にしてしまったら、おさんも「徒党」なのである。
最後は、不義密通の件で大経師の家はお取り潰し、以春は追放になる。以春を裏切ってナンバーツーの院の経師についた助右ヱ門も、所払いになる。
徒党は「集団思考」
二回目の授業、イタリア映画『自転車泥棒』では、貧しい親子が唯一の商売道具である自転車をマフィアという徒党に盗まれる。徒党は、(もちろん)集団の外部にいる個人を、力で圧倒する。
四回目の授業ではギリシャ悲劇が題材になり、ここでは「集団思考」、「敵味方思考」という徒党(ここではデモクラシー的権力といってもいいが)の特徴がみられる。区別と差別をしなければ生きていけない思考のこと。
そして、徒党はもちろん「利益(最優先)思考」である。他人は自分の利益のための道具。いつ裏切られるか分からない。一般的に言って、自分のことを一人の人間ではなく、道具としか考えないような人間には、近づいてはならない。
法のエッセンスは、徒党に対抗すること
法も政治も古代ギリシャとローマで生まれ、ルネサンス期以降にヨーロッパ人が再発見して、今のような形になった。明治時代の日本もそれを借りてきた。
徒党的な集団が、個人を犠牲にすることがある。どうやってそれを防げばいいのか、徒党をどうやって解体するのか、ということを、紀元前の古代ギリシャ人たちは真剣に考えていた。
そこから法と政治、デモクラシーが生まれてきた。
法のエッセンスというのは、「本来は」そういうことらしい。
現実には、必ずしもそうなってはおらず、しばしば「グルになった集団」が勝つので、砂を噛むような思いしか残らない、という話もある(五回目の授業)が、それは省略する。
笑ってしまうほど、徒党的
ここまで紹介してきて、『近松物語』が江戸時代という昔の変な話、というわけではないことが分かったと思う。
(ここから下は、独自の感想です。)
なぜなら、徒党的な集団こそが、現代の日本で権力の真ん中にいるから。
政治の世界だけではなく、最近個人に対する圧力が話題になる、芸能界や、スポーツ団体なども。
社員に「家族」と言いながら、クソみたいな金額しか払わないのも、個人の犠牲強要。
しかし、徒党的な関係がもっとも色濃く残っている場所は、政治の世界である。テレビをつければ、いつでも見られる。今さらくわしくは書かないが、森友加計問題などは徒党的ふるまいの見本市のようなものだった。
『自転車泥棒』で、親子は盗まれた自転車を取り戻すために、様々な人間を追及する。しかし、徒党の仲間たちはグルになっていて、まったく尻尾をつかませない。そうしている間に、自転車は分解され売り払われていく。追求されても責任者をなかなか呼ばなかったり、記録がない・記憶にない、とのらくら逃げるやり方と本質的に同じである。政治は、笑ってしまうほどに徒党的。
痛ましいことに、森友加計問題には公務員の自殺者まで出た。こういうことが、この現代に、本当に起こるのである。
そういえば、2017年の選挙では、一応は仲間のはずの相手を裏切って新党を立ち上げた人もいた。そのほうが得とみれば簡単に裏切りもする。実に、政治は「徒党たちのショー」である。
こうした、いかにも徒党的なやり口は、はたから見ていると、本当にイヤーな気分になる※。
しかし、問題は、徒党に対抗する側も、しばしば徒党であり、「グルになってるやつら」、それが言いすぎなら、「つるんでいるやつら」になりがちだ、ということ。
※イヤーな気分にならない人は、あまりに徒党的な集団に慣れ過ぎていて、(心理的に)徒党の内部にいる。そして、「利益思考」を持っている。徒党が自分に利益をもたらす、あるいはもたらしてくれると信じるからこそ、その徒党的ふるまいが気にならない。「自分はこのグループに属しているけど、ああいうのはさすがにちょっと……」とは考えない。良心や正義には重きを置かないのが、「利益最優先」だから。
「人生の目的はなるべく上手くやって、お金や権力をたくさん手に入れることである。いい家や車を買い、他人にちやほやされること。他に人生でやることなんてあるの? 常に権力がある者の側につき、取り入るのは大事なことだ。取り入る相手が変わっても裏切ったなどとは考えてはいけない。自分の利益を大きくするために必要な行為だったのだから」。
一皮むけばこういう人は意外とたくさんいるし、「利益思考」は、程度の差はあれ、誰の中にも存在する。そして、それが悪いというわけではない。このリアリティは結局ゲームなんだから。好きなように生きればいい。
ちなみに、彼らは自分が属していない集団の徒党的なふるまいは、厳しく批判する。それに、自分以外の人間もみんな徒党を組んでいると信じている。なぜなら、自分はそれ以外の関係を知らないから。
それでも個人は連帯する
徒党の問題は根が深い。古代ギリシャの時代から、法や政治、デモクラシーが発展してきたのに、それでも徒党から個人を守れない。
多くの、多分普通の感覚の人が、政治のニュースは見るのも嫌、関わりたくない、という気持ちは、ここから出ているのかもしれないと思う。あまりにも、イヤーな気分になるし、どうせどの党も一緒、同じ徒党なんだから、というわけだ。そしてそれは、人間の社会では古代ギリシャから今まで、決して徒党を排除できなかった、という意味で、一理あるのかもしれない。
『近松物語』でも、以春は追放されたが、ナンバーツーが大経師の地位につき、別のグルになったやつらが利益を得るだけなのである。
徒党的なものの圧倒的な力の前に、個人はどうするのか。
簡単に言うと、徒党を解体するための仕掛けは「劇中劇」、裁判や公の議会のことである(理解が間違っていたらごめんなさい。三回目以降の授業)。
そして、徒党に対抗するために、個人は連帯することができる。
追い詰められた個人に対して、連帯の心がわき起こる。
ちなみに、連帯というのは「つるむ」、「グルになる」ということではない。意見が違っていても、利害が共通でなくても、個人は連帯できる、歴史上の、孤独な、ただの一点同士として。
今のところ、望みがあるのは、「個人の連帯」ということだ、と思った。
(法に望みがある、とは思えない読後感だった。木庭先生、ごめんなさい)
そして、徒党に対抗する側が、徒党にならないように気をつけること。
長くなりましたが、ここまで読んで下さった方、ありがとうございました。
Tweet
Comments