///柄谷行人『世界史の構造』と未来のはなし

柄谷行人『世界史の構造』と未来のはなし

2021年前半は、柄谷行人(からたにこうじん)を読んでいました。→読書メーターの感想はこちら

この著者をほぼ何も知らない状態で読んだので、読む順序もバラバラで、「あ~、さっきの本のあれはそういうことか」と色々思った。

個人的には、新しい新書で読みやすかったのは『世界史の実験』。柳田国男と日本の話が多いので。文学好きなら『日本近代文学の起源』は知ってる人が多いと思うが、私は『意味という病』がとにかく面白かった。小説を書く前に『近代文学の終り』を読みたかったw そして、やはり代表的な著作という意味で『世界史の構造』が抜群に面白い。それを補足する『帝国の構造』『哲学の起源』、この時たまたま同時並行で十二国記を読んでいたので前者は余計に面白かった。後者は『誰のために法は生まれた』(木庭顕)を思い出した(ここで言われている自由な個人の連帯はアソシーエションに繋がると思う)

柄谷行人先生の読んだ本まとめ
※読んだ本を一枚のマップにまとめようとしたもの。間違っていたり、かなり適当なところもあります(すみませーん)。マルクスとその発展系、文芸批評、柳田国男、という三つの軸があるような気が。こうして見ると、読んでない本が結構あります(でもまあ、このへんでいいかな)

世界史の構造

『世界史の構造』は、地球を見下ろして、人類数千年の歴史をめくるめく概観するような面白さがあった。代表作。

マルクスは歴史を「生産様式」から見たが、『世界史の構造』はマルクスを導きの糸としつつ、「交換様式」という別の観点から歴史を見ている。

学生の頃、世界史は興味の持てない教科だった。それは次々と事件が起こって、事件同士の因果関係は一応は分かるものの、全体としては散漫な印象で、ただただ膨大な人名や年号を覚えなければならない、と思っていたから。最初にこうした歴史全体を概観する観点を得られていたら、もっと興味が持てたかもしれない。ウォーラーステイン読めばよかったw

交換様式

簡単にまとめると、交換様式A(互酬交換)、B(服従と保護)、C(商品交換)が、今のところ人類の歴史で存在する。

交換様式Aは贈与と返礼である。親が子どもの面倒を見て、成人した子が親の面倒を見るのは、一種の交換。神社で賽銭をして、何かを願うのもそうで、神様に贈与してお返しを迫ること(神強制)。モース『贈与論』のように、返礼を前提とした贈り物によって社会制度を維持すること。
交換様式Aは、古代の氏族社会で支配的だった。

交換様式Bは、支配と保護という交換である。暴力団も、ミカジメ料を払えば他の暴力団から守ってくれるなら、それが交換になる。国家も実は同じ。国家は暴力に依拠するが、暴力だけでは長続きしない。支配される側が自発的に支持して、初めて暴力が「権力」になる。つまり、支配者は灌漑などの公共事業をするとか、収奪した富を再分配するとかして、被支配者を保護しなければならない。
国家が古代の氏族社会と異なる特徴は、官僚と常備軍を持つことである。
封建社会、専制国家、世界帝国は、交換様式Bが支配的だった。

今の世界は、交換様式Cが支配的な世界である。私たちは資本主義社会に生きているので、Cは説明不要だろう。貨幣による商品交換のこと。Cはある意味、自由である。Aのしがらみも、Bの身分制もない。お金を払って物を買うのは、後くされがない。ただし、いずれは貧富の格差に帰結する。

交換様式Cが支配的になっても、A、Bは形を変えて残っている。というより、どんな社会構成体でも、A、B、Cは混在している。Bが支配的だった時代にも、貨幣による商品交換Cはあったし、農村の共同体はAだった。ただ、社会の中で支配的ではなかっただけである。

現在の資本主義社会にもA、Bはもちろん存在する。Aは家族だけではなく、「ネーション」として存在する。「ネーション」とは想像の共同体のこと。「国民」とか「日本人」という概念にあたる。近代化で、それまで相互扶助を行ってきた村落などの共同体が解体された。その失われたAの代わりに「ネーション」がある。「同じ国民なんだから助け合おう」という感覚が、富の再配分を促す。各国の近代文学はこの「ネーション」を作り出すために大事な役割を果たした。Cによって必然的に富の不平等が生まれるが、その格差が激烈になればなるほど、多くの人が「ネーション」にすがろうとする(今、ここ)。

つまり、現代の近代国家、国民国家は、基本的に、「資本-国家-ネーション(C-B-A)」の接合として存在する。その配分の違いで差異が生まれてくる。たとえば中国はBの要素が他より強い、というように。(実際には交換様式Dもすでに/ずっと存在しているが、ここでは省く)

未来のはなし

「資本-国家-ネーション」の接合は歴史において完成形ではない。以前、そういう「歴史の終焉」論が流行ったこともあったが。次の交換様式Dがこれからやって来る。Cはいま、資本主義で扱われていなかった分野を解体し続け、延命中。もちろんDが生まれたとして、支配的になるには長い時間がかかるだろう。多分、百年とか二百年とかかかるかもしれない。次の交換様式が支配的になっても、A、B、Cは形を変えて残る。つまり、お金や経済がなくなるということはない。

『世界史の構造』では、交換様式D(Xともいう)は、Aを高次で回復するもの、と言っている。

『世界史の構造』を読んでいると、交換様式Cまでは実にスッキリしていて分かりやすい。あいまいでよく分からない感じになるのはその後である(すみません)。これは仕方がないことだと思う。誰も未来のことは分からない。童のときは思うことも童のごとく……交換様式Dの世界に生きていない者は、それがどういうものか、本当には分からないのだ。だけど、交換様式という言い方ではなくても、今、多くの識者が似たようなことを考えている。資本主義の次に来るもののことを。
そういう本の中でも、『世界史の構造』はかなり抜きんでて面白かった。もっと早く読めばよかったけど、これもタイミングというものだろう。

追記)
そして、私もいろいろ考えてしまった。
私はもともとスピクラスタだったので、昔読んだバシャールの未来のはなし。
現在のようにお金やモノが基盤となったいまの制度のかわりに、最終的には「人そのもの」を基盤にした新しい制度がつくられる、という話がある。昔読んだときは「へえー」としか思わなかったけど、今思い返すと「え、何、そこ、もっとくわしく(笑)」と思う。「人そのもの」を基盤にした制度って?? また、地域通貨についての話(”政治的な垣根があるかぎり失敗するだろう”)もあったし、この惑星のほとんどの経済制度は”全員に行き渡るのには不十分である”というコンセプトをもとにつくられている、というのもよく考えてみたいかも。あのへんの断片的に散らばっている話をもう一度まとめて読み直してみたい。宇宙人とか関係なく、未来を考えるきっかけとして。

追記2)
念のため、資本主義の次に来るもの……って、共産主義じゃないですよ(笑)。資本主義でなければ共産主義、みたいな考え方って、何十年前も前。