最近、LINEで長ーく話していたことがあって、そのとき考えたことを整理してブログにしてみました。「期待する」について。
日常生活は、期待することの連続だと思います。単純な予測に近い期待もあれば、理不尽な思い込みによる期待もある。期待と離れて生きることは事実上不可能ですが、その中でもトラブルを生む「期待」があると思っています。それは「他人への期待」。
他人に期待するということ
相手に何かを働きかける。言葉でもいい、行動でもいい。それに対して、相手がどう反応するのか、そこにはいくつもの選択肢がありえます。
ここで、
「期待する」=「自分が予想する、ある結果しかみとめない」
と定義すると、次の図のようなことになります(図1-2)。
自分の予想した反応が返ってこないと、怒ったり、失望したり、落胆したりしてしまう。
特定の反応に対する固執が、「他者への期待」の根本にある。
ここで最近の自分の事例を具体的に書いてみますと(長いので読み飛ばしてください)……
夫に映画を勧めたんですよ。そのシリーズが好きだと知ったので、「新作を大画面で見たほうがいいよ!」と勧めたのです。それで、二人で観に行きました。
映画館から出てきて、私は「面白かった?」と聞くんだけど、それは「面白かった!」という反応を期待してるんです。
ところが、夫は何たらかんたら言うんですよ、つまり昔見たアムロやシャアのような主人公たち(あっ、書いちゃった)に比べると今作の主人公は小物なんだ、というようなことをね(爆笑)。まあ、そうだろうとは思うけど(笑)、でもこの映画はこの映画なんだからいいじゃん!! と、ムッとしたんですが、しばらくして「これこそ、相手に対する期待だな」って(笑)。でも、東南アジアの雰囲気など、映像の美しさは十分感じていたようでした。みんなハサウェイ見てね!
ところで、ごく普通の期待はあります。
電車に乗れば、目的地に着くと期待するし、レストランで料理を注文すれば、その料理が出てくると期待しますよね……たまには電車が止まったり、違う料理が出てきたりもするけど。
仕事で約束した日にその人が来てくれなかったら、普通に困りますよね。
そういう予測に近いか、双方に明示的な期待とは違って、「○○○なら……こうするはずだ」という思い込みがズレていると、トラブルになりやすいんだと思います。
(追記:期待が悪いというわけではないです。社会的な期待にも妥当なものがあります。他人には暴力は振るわない、とかね。だけど、実際に暴力をふるう夫や妻、親はいる。それは、原因はどうあれ、その人が「選択した」行動。それに対してどう反応するかは、こちら側がまた、内なる神聖な力によって「選択する」ことができる(縁を切る、とかね。子どもの場合は、それができないので第三者の関与が重要になってきますが))
私には、自分の行動を選択する力(パワー)がある。
相手にもそれがある。
双方の胸に神聖な火が燃えていて、それは侵害できないものである。
こういうこと。
そうは言っても、「期待して、裏切られたと感じて……」の繰り返しになることはよく分かります。それは、どこかで目が覚めるタイミングが来るのか、来ないまま一生、他者への期待に振り回されて生きるのか……ですね。後者でも別にいいと思うんです。その人の人生だもの。そもそも過去の記憶があるかぎり、期待からは完全には逃れられないものだし。でも、自分の中にある過度な期待に気がついてコントロールできるようになると、いろいろと少し楽になるのかな、と思うのです。
自分の行動の結果に期待する
実は、「期待する」というのは、自分自身に対しても生じると思いました。
ひょっとすると、本当のダメージになるのはこちらのほうかもしれない。
何か行動を起こすと、複数の結果の可能性があります。
たとえば、素敵な○○○の写真をSNSにアップする。
その結果、「いいね」の数が0だったり、10だったり、1000だったり、1万だったりするかもしれないですよね(笑)。
結果が返ってきたとき、どう感じるかで、自分が何にどれくらい期待していた(ある結果にどれほど強く執着していたか)が分かると思います。
ほとんどの人は、一生懸命撮った写真に「いいね」があまり伸びなくてちょっとがっかりしても、「まあ、別にいいか」「そんなこともあるか」くらいに流して、次の行動に移りますよね(笑)。それにすぐにはいい結果を生まなくても、自分の糧になるかもしれないし、後で誰かが見てくれるかもしれないし。そこで、自分の望む結果だけにあまりに執着していると、病みます……。
執着というのは、ある結果の矢印だけをぎゅーっと握って離さない、というイメージです。
全力でいいと思うようにやって、結果には固執しない
「期待をしない=特定の結果に固執しない」ですが、それは無気力や頑張らないこととは違います。
情熱を持って行動を起こしながら、特定の結果に執着しないことはもちろんできる。
たとえば写真なら構図を工夫して、光がきちんと当たるように気を配って……と、自分が一番いいと思うように工夫すればいいし、そのときには過去のデータを参照して、未来の予測もするでしょう。でも、実際の未来には何が起こるのか分からないから、「絶対に、こういう結果になるはずだ」とは思わない。結果が出たら、それを参考にして、またいろいろ工夫して、次の行動に移って……そのときも、未来の予測はするけど結果に執着はしない。固執しなければ、どんな結果が出ても「ああ、そう来たか」と受け止められるはず。
このサイクルが、たぶん最強。
もちろん、この行動が自分の中で燃えている火から出ているものであることが前提だけど。
まとめ
ようするに、他人にであれ、自分にであれ、ある特定の結果の矢印をぎゅっと握って離さないようなとき、その手のひらをちょっとゆるめてあげると、楽になるのではないか、ということでした。
だんだん書いていて思ったのですが、やはりまず自分に対してそうしたほうが、精神衛生上、役立つような気がします(笑)。期待というのは生きているかぎり逃れられないものだけど、期待が行き過ぎると、自分のやる気や肯定感、相手の選択の力など、いろいろなものを殺します。気をつけたいものです。おしまい(^人^)
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